この季節、雪国に住んでいたころは、毎日が雪との格闘だった。片付けるそばから降り積もってしまう。溜息をつきながら空を見上げては、天はなぜこれほどまでに痛めつけるのかと絶望感にさいなまれたものだ。
今、雪国では、大雪が続いている。雪は降り始めるときりもなく続き、晴れる日はめったにない。スカッと晴れた空が恋しくてならなかった。
黒猫プリンとトラ猫マロンは、雪遊びが好きだった。
もう少しで、命を失いかけたこともある。テレビのニュースでは、毎日のように、雪の片づけをするときには一人でしないようにという。だが夫婦二人暮らしでは、日中は一人になることが多く、夫が仕事から帰ってくるのを待っていては日が暮れてしまうし、だいいち、車も人もたちまち雪に閉じ込められてしまって、買い物にも出ることができない。
雪国に住んでいたころの家
この家の裏側に水路があって、雪片付けで高く積みあげた雪をそこまで運び、流すことにしていたのだが、足が滑って水路に落ちてしまったのだった。水路といっても深く、水嵩は腰の下あたりまであって流れも早く、ちょっとした川のようであった。
気温は5℃以下。落ちただけでも死にそうである。あたりに人はいない。叫んでも雪でくぐもって、声は届かない。流されまいとして両脚をふんばっていても、揺らいでしまう。
誰もきてくれないなら自力でなんとかしなくてはならない。落ち着けと自分に言い聞かせてあたりを見回すと、指を伸ばせばどうにか届くところに雪掻き用のスコップがあつた。
スコップをはじいてしまわないよう慎重に取って水路の壁に押しつけ、流されないように体重をかけながらようやくの思いで這い上がり、たちまち流されていくスコップを、あれが自分だったらと怖ろしい思いで眺めていた。
雪道で、車が横転したこともあった。スリップして横滑りをし、道の端の除雪した雪の壁を乗り越え、横転しながらたんぼに落ちた。さいわい田んぼには雪が積もっていて車も自分も無傷ですんだ。スリップした車は制御がきかなくなるのだ。
大雪のニュースを眼にするたびに、そのころの重い雪空を思いだし、切ないほどに恋しかった青空への思いにまた出会うのである。
あちらは大雪なのに、こちらは富士にあまり雪がない。例年なら、中腹あたりまで白いのに。こんなことはこれまであまりなかったという。気になる兆候だ。富士山がマグマを溜めているせいで、噴火がまた起きるかもしれないと、警鐘を鳴らす人もいる。